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エッセイ

些か長いタイトルになってしまった。これは夏目漱石の「こころ」の有名な一節である。私は、この一節を読む度に、一方でボランティアといった言葉が頭をよぎる。
そこで今回、私のボランティアに関する私見とそれにまつわるエピソードをご紹介してみたい。

ボランティア(volunteer)の本来の語義は義勇兵、志願兵と、ある意味軍事用語である。だから、私は、ボランティアと聞くと、まず、スペイン戦争のヘミングウェーの「誰がために鐘が鳴る」と、やはりその戦いに義勇軍と共に取材に赴いた私の好きな写真家ロバート・キャパを思い浮かべてしまう。また、その源流は、宗教団体の活動にあるが、もう一つは、ノーブレス・オブリージュ (フランス語:noblesse oblige)でもあると私は思っている。
ノーブレス・オブリージュは「高貴なる者の責務」と訳されている。いわゆる、財産、権力、社会的地位を得ている者には責任が伴う、というものである。古くからイギリスではその考えが浸透しており、第一次世界大戦では貴族階級の子弟の戦死者、戦傷者が多かったのはそのためである。彼らは皆、志願して戦場に赴いている。小説「チャタレー夫人の恋」も、そんな傷痍軍人であるチャタレー家の当主(夫)の存在がなければ成立しない物語である。
よって、現在の平和な日本では、ボランティアとは命を掛け、身を挺してというほどのものではなく、概ね "自ら進んで事業に参加する人"といった部分を継承しているといっていいだろう。しかし、私たち日本人はボランティア活動即ち、奉仕活動と捉えているむきがある。だが、このボランティア活動と奉仕活動には微妙な異なりがあるような気がするのだ。

奉仕とは広辞苑によると、"献身的に国家・社会のためにつくす"となっている。このことは、やはり国会においても平成13年6月26日に参議院 文教科学委員会で子供たちへの情操教育の一環として、奉仕活動を義務化すべきか否かの中で、ボランティアの"自発性"をどう捉えるかといったことで議論がなされている。
そこで、私が長崎で体験したエピソードを二つ紹介しておきたい。

一つはずい分以前のことであるが、今日、自殺の増加で注目されているボランティア団体、「命の電話」についてである。
長崎に「命の電話」が設立された当時、自ら進んで相談員になられる方々に依頼を受けて、私も精神科医の立場で講義をしたことがある。私はそこで必ず、「電話という音声だけで先方の訴えを受け止めることは、大変ですよ。大丈夫ですか!でも皆さん進んでなさることですからね...」といって講義を始めるのが常であった。だが、平成10年8月9日の地元新聞に『相談員の「心の負担」深刻化...利用者増、性的嫌がらせも...』といった記事が掲載されていた。
相談員の負担が深刻なことは理解できるし、予測されたことである。私が引っ掛かったのは、"性的嫌がらせも"である。そう受け止めたのは相談員である。多分、そのほとんどが嫌がらせ、いたずらによる電話であろう。しかし、中には、性の悩みを真剣に、その記事でも触れている守秘義務があるからと、勇気を持って電話された方がおられるかもしれない。そんな方がこの記事を読んでどう思うだろうか。自分が語ったことが、詳細であったから、そんなに風に受け止められたのでは...と思われる方がいないとも限らない。電話での相談を受ける以上は、その位の配慮が必要である。
そして、こういった問題は「命の電話」内部で対策の仕組みを作っておき、そこで、対応策を検討して、解決を図るべきで、公にすべきでないのは常識である。このことを私は、県から依頼された何かの講演の時に持ち出した。もちろん「命の電話」の構成員の方も参加されていたが、何の質問もなかったし、その後、私に「命の電話」長崎支部から講師依頼はこなくなった。

二つ目は最近のことである。
今度はこちらが、ある方の個人情報を他言したとのことで、その方が人権擁護委員会にご相談なさったことからのエピソードである。後日、身分、姓名を証明する身分証等の提示をなさらなかったが、多分法務局の人権擁護課の方?2名と、私の個人情報漏えいの件で相談を受けたとおっしゃる人権擁護委員とおっしゃる方?が、私を訪ねて来られた。事前に電話でアポイントはとっておられたが、先に述べたように、ご自分の身分、姓名もはっきりされないまま、持参された用紙に私の姓名、住所の記載を求めてこられた。私はこの怪しげなお三方に自分の個人情報等を伝える義務はないと判断したので、記載を拒否し、その後の質問に対しても最小限の回答に留めた。
その一連の流れの中で、同様に姓名は名乗らず、その身分を明かすものも提示されなかった人権擁護委員とおっしゃる方は、私の個人情報漏えいを問題にして相談にこられた方への対応について、人権擁護委員会では「"門前払い"できないものですから」と...。
嘘おっしゃいますなである。それと、私を問題視されている方とはいえ"門前払い"できない、とは些か失礼な表現ではないだろうか。
まず、「"門前払い"できない」の嘘についてだが、かなり以前のことで、精神医療に関する法改正に伴い精神科病院に入院している患者が、県当局と人権擁護委員会に対して退院、ならびに処遇改善請求が法に明記され、その権利が保障された時期のことである。当時、うちに入院中の患者が人権擁護委員会に退院請求を行った。そこで、人権擁護委員の方が来院され、その患者と簡単な面談をされたが、患者の要望については、その患者の病状等の専門的知識を持ち合わせていないからと、その患者は、人権擁護委員会からは、いわゆる"門前払い"にあった。それは確かに当然のことである。その後しばらくして、入院患者の諸々の請求先は県当局(精神保健福祉センター)の一本に絞られた。
また"門前払い"なる表現であるが、その語源は「江戸時代の追放刑の中で最も軽いもので、奉行所の門前から追い出すこと」とある。司法、それも人権擁護に何らかの形で携わる方なら、もっと適切な言葉を選んで使っていただきたいものである。
そんな人権擁護委員も、人権擁護委員法8条、9条の定めにより、任期3年のボランティアである。

この二つのエピソードを体験して、やはりわが国では、ボランティアと奉仕が混同しているとしか思えない。そして、ボランティアといいつつも、どこか「上から目線」を感じるのである。

いいではないか、平和な日本でのボランティア活動である。「できること」「できないこと」、そして「しなければならないこと」「してはならないこと」をもう少しはっきりさせても...。
といったことで、ボランティアのこの日本での訳は「人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」が最もふさわしいと思うのだが、如何なものだろうか。

実際、そんな思いで様々なボランティア活動を行っておられる方々との交流を私は幾つか持っている。そういった方々の瞳は、何時も輝いている。