長崎の街から:その②
04
(月)
01月
【 エッセイ 】
現在、長崎市では約45万人(2009年12月1日推定人口)の人々が生活を営んでいる。その長崎、今から440年前、1570年に開港し、翌年ポルトガル船が入港しているが、当時は、わずか百戸余の寒村だったそうである。そして、それから35年後に、長崎は江戸幕府の天領となり、その後の鎖国政策の中で、唯一海外との交易の地として発展することになる。当然、そこでもたらされる富を求めて人々が集まってきたことは、容易に理解できる。だが、三方を山に、そしてもう一方を外海につながる大きな入江に囲まれた長崎は、多くの人々が集まり、生活を営むには非常に不都合な地であった。その後、幾度も埋め立てられ、そこが移住した人々の住い、商いの場として利用されていることから、当初は平坦な地は本当に少なかったに違いない。
だが、鎖国政策をとる江戸幕府は、国内(長崎の外)にぬける街道が、長崎街道、時津街道、そして、私たちの病院のそばを通る茂木街道の3つの街道だけで、そこの警護をしっかりしていればキリシタン宣教師らによる国内での布教活動を防げた。そんな地形が長崎を唯一の海外に開かれた港とするのに都合がよかったのである。本来、街、都市とは、利便性がよく、人々が商い、交易を行いやすい地に自然と人々が集い発展するものである。となると、表現を変えれば、長崎は人工的に生みだされた街だと言える。
そこで、そのような長崎に移り住んだ庶民の一番の問題は、食料ではなかっただろうか。現代のような流通システムの整備はもちろん行われていない。当然、各地域とも、日常の食生活の多くは自給自足である。そんな中で、長崎は、海産物は別としても、当時から、農産物を生産する農地はほとんどなかったに等しい。そこで、「坂の長崎」、ロマンチックなイメージをお持ちの方が多いだろうが、あの山の斜面を開墾して農地としたのである。今は住宅がぎっしりと建ち、夜になるとその家々の照明が長崎の夜景を彩っているが、私が幼かった頃まで、そこは段々畑であった。
その後、このような人口流入・増加は、江戸末期から明治にかけても、さらに続くことになる。それは、日本が多くの国々と開国した後、2010年NHKの大河ドラマ「竜馬伝」以後も、長崎も主要な港湾の一つとして、市内の東山手に洋館が建ち並び、異国情緒豊かな街になるとともに、海外との交易がますます盛んになり、また、明治に入ってからは、富国強兵策で、造船所では軍艦が建造され、中国大陸への進出の拠点となったことによる。
そんな中、長崎の北部に比較的平坦で農業に適した地域があった。その百合野地区で農業に従事する人々が、人口の増え続ける長崎市に近いことを活かした野菜、果樹の栽培を行おうと、農事改良に努めるようになった。中でも、その中心人物であった辻田長次郎氏は、当時全国的に注目を集めた「辻田白菜」を開発するなど活躍、さらに長崎の中華料理にも影響を与え、戦中、戦後の食料状況の改善にも尽力されている。しかし、皮肉なことに、戦後の経済成長は百合野地区にも住宅地の進出をもたらし、現在、長崎の食生活、食文化を下支えしてきたこの地域の農業は後退を余儀なくされている。
私は長崎人として、個人的に長崎が最も誇れるのは「食文化」であると思っている。だが、豊かな土地に恵まれていたわけではなし、食料自給に苦労した土地柄である。そんな中、辻田長次郎氏のように工夫、努力され、下支えされてきた方々がおられたからこそ、"住みやすい街"として長崎が愛されてきたことを忘れてはならないと思う。
- 長崎街道:長崎から福岡の小倉までの街道である。長崎から国内へのメインストリートと言っていい。江戸時代、長崎の輸入品が砂糖であったことから、この街道は別名シュガーロードと言われている。街道の旧宿場町には独自のスイーツ(菓子)が製造され、現在も私たちの舌を楽しませてくれている。
- 時津街道:秀吉の時代、26名の囚われたキリシタン(後の26聖人)が、この街道を通って長崎西山の殉教の丘まで歩いて向かっている。
- 茂木街道:私たちの病院の前を通る街道。鎖国以前は、キリシタンの宣教師がこの街道を経て茂木から船に乗り、天草、島原への布教活動を行い、その布教活動が島原・天草の乱に至っている。