何処か似ていませんか。 ─ ウイーン見聞録 ─
08
(火)
06月
【 エッセイ 】
しばらくぶりです。5月は何かと忙しくて、ブログをサボりました。ごめんなさい。
1978年6月、私はオーストリー首都ウイーンにいた。その年に開港した成田空港からパリ経由で国際精神薬理学会に出席するためであった。滞在期間はわずか4~5日である。その上、学会出席といっても精神科医になって10年にも満たない31歳の若輩者、恩師、故高橋良教授、はじめ諸先輩にお供しての、もちろん自費出張であった。学会については、開会式がハプスブルグ王朝のホーフブルク宮殿の大広間で行われたことを2009年3月10日のブログ「古いアルバム」でふれている。だが、それ以外、学会に関しては、ほとんど記憶にない。困ったものである。
ではこの一週間近く、何をしていたかである。そうそう、その後1981年10月、自国の軍事パレードを観閲中に行進中の兵士により暗殺されたエジプトのサーダート大統領と、宿泊先のホテル・ブリストルのロビーですれ違ったな、凄かった。
その他はというと、当時、私の長崎の友人の従姉弟が音楽留学しており、二人にウイーン市内をしっかりと案内していただいた。これは楽しかった。映画「第三の男」に登場する観覧車に乗った時は高所恐怖症ながらも感激した。
でも、きっとこんな観光三昧ではいけない、と思ったのだろう。二人に頼んで、何処か精神科の施設を見学が出来ないものかと頼んでみたところ、何と当時少しやる気になっていたアルコール依存症の治療施設の見学の許可を取ってくれた。
あれはウイーンを発つ前日だった。ウイーン郊外のその施設は、病床150床でウイーン市とその周辺地域のアルコール依存症者への医療サービスを担っている、とのことであった。そこで、まず驚いたのが、150床の病床の3分の1、50床が女性病床であることだった。
30数年前、日本でもやっと女性のアルコール依存症者について、ぼつぼつ話題になりかけていたころだ。私なんかも、まだ2、3人の女性の患者さんを診察したか、しなかったか、といった時代だった。今じゃ、常時、複数名の女性のアルコール依存症の方が入院されている。しかし、まだ今でも、入院者の3分の1ではない。
それから、副院長に院内を案内してもらっている時だった。一台の黄色いポルシェが中庭の駐車スペースに入ってきて、そこからヨーロッパ貴族の末裔かといってもいい長身の紳士が下りてきた。副院長は数日前に退院し、今日の集団療法への参加のため来院した患者である、と紹介してくれた。"へぇ~貴族のアル中か??"と、これまた驚きであった。
そして、この施設は石畳の趣のある公道を挟んで、入院病室がある施設と、集団療法などが行なわれるリハビリ施設が分かれていた。"おいおい、患者が、リハビリ治療に行ってくる、って言って、居酒屋、あるいはカフェでワインを一杯なんてことないの?"と、これまた要らぬ心配もしたものであった。
また、当時の日本はミネラルウォーターを飲む習慣はなかった。そして、現在もだが、日本では飲食店では、水かお茶が頼まなくとも必ず出てくる。もちろん無料だ。しかし、ヨーロッパでは、当時も今も、水、即ちミネラルウォーターは、必ず注文しなければいけない。それも有料である。だが、その施設のレストランには、ミネラルウォーターが各テーブルに置いてあった。なるほど、水分摂取の習慣から変えなければいけないのである。テーブルワインより高いミネラルウォーターが無料で自由に飲めるようにしてあった。
そして、クローズドミーティングが行なわれている集団療法室も、少し開けた扉越しにのぞかせてもらった。その時、笑顔で私に手を挙げてくれた入院患者がいた。
その彼の表情が、数週間前、私が毎週火曜日夜に30年以上続けている夜間集会(大集団療法)を進行する中で、何故か、ふっと浮かんできた。それが、このブログを書くきっかけになった。
あの30数年前のウイーンの施設見学、何もかもがカルチャーショックだった。うらやましかった。
そして、20数年経過した10年前に、私は、アルコール依存症とうつ病などのストレス関連疾患の入院治療を目的としたストレスケア病棟とレストランを新築した。その頃はウイーンの施設見学のことなんかは意識することなく新しい病棟、レストラン空間をイメージして作り上げたつもりであった。
ただ、今回、その笑顔の主を思い出したので、これまた古いアルバムを開いて、その施設の写真を探し出して見てみた。そしたら何処か似ているんだよね。不思議なものだね、人間の潜在意識は!
以下二つの施設の似ている場所の紹介である。何処か似ていませんか。