『愛煙家通信No.1』
20
(火)
07月
【 エッセイ 】
このブログを書くことをすすめてくれたG君は、高校時代タバコを吸っていて、ラグビー部を辞めることになった。おかげで、私にレギュラーポジションが転がり込んできた。
また、私はというと、大学に進学してからタバコを始めた。初めて喫煙した日のことは憶えている。私の進学した大阪医科大学は、商都大阪と古都京都のちょうど中間の高槻市にあった。当時はまだ、田畑が広がり、道路の脇の小川には鯉も泳いでいた。ただ、今では大阪からずーっと工場と住宅がぎっしり詰まっており昔の面影はない。そんな周囲が畑の小径で「いこい」というタバコを吸ったのが、私の最初の一服であった。肺の奥深くすいこんだら、頭がジーンとしびれ、目眩がして、クラクラとなった。そして、一瞬千鳥足になり危うく畑に落ちるところであった。とにかく気持ちよかった。それから常習するようになった。
そうそう、90代後半まで生き抜いた、明治の女であった私の祖母も愛煙家であった。その祖母のごひいきの銘柄は「ゴールデンバット」だった。だが、1960年代後半には、この「ゴールデンバット」なるタバコはなかなか手に入らなくなっていた。それにも関わらず祖母は、何処からか手に入れ、そのタバコをこよなく愛し、楽しみ続け、生涯を終えた。また、その10本入りのタバコのケース、薄い紙製であったが、デザインはなかなかおしゃれだった。全体がグリーンで、そこにゴールデンバットが描かれていた。
タバコ自体はスカスカで美味しいものではなかったが、これが当時の若者に人気があった。私は夏、冬の休みで帰省し、休みが終わり大阪に帰る時は、その「ゴールデンバット」を1カートン、場合には2カートン、祖母におねだりして、いただいて上阪するのが常であった。何故かというと、大学に戻り、大阪が地元の先輩に1箱(薄紙で作られてたから1袋かな)差し上げると、必ず、お酒付きの夕食をご馳走してもらえていたからだ。もう、大阪では手に入らなくなっていたのである。そんな希少なタバコとか、珍しい外国タバコ(洋モク)を持ち歩き、それを吸うのがまだ粋な時代だったのである。さらに、タバコに付随した持ち物にも愛煙家は執着を示していた。とくにライターには皆こだわっていた。その最たる物がジッポであった。私もジッポのライターを購入した時は、何かワンランク上の大人になったような気がしたものである。
今回のタイトル『愛煙家通信No.1』は、そんな喫煙文化と、加えてタバコの健康被害に対する疑義について、そして、今日の禁煙キャンペーンはファッショであるなどと、養老孟司、山崎正和、金美齢、猪瀬直樹、上坂冬子などなど、そうそうたる論客が語っておられる、なかなか面白い本である。『愛煙家通信No.2』の出版を期待したいものだ。
そんな私は30代半ばには、「チェリー」を1日40本以上吸うヘビースモーカーであった。それが1982年11月23日以後1本も吸わなくなった。よく憶えているだろう。その頃、ぼちぼちタバコを止めようか、と思っていたところだった。そして、不謹慎な話だが、その年の7月23日に長崎で大水害があった。タバコを止めたら、必ず「何時、タバコを止めたの?」と尋ねられるものである。それまでは、私が尋ねていた。そんな時に一々思い出すのが面倒だと思って、長崎大水害の年の最終祭日(当時は昭和の時代で、今上天皇の誕生日12月23日は祭日ではなかった)に止めることにしただけのことである。
だが、私は『愛煙家通信No.1』を、共感を持って読ませていただいた。もちろん、この本でご自分のご意見を述べられている方の中にも本来タバコを吸われない方、私と同じように禁煙された方もおられる。
私が常に一貫しているのは、タバコと酒(アルコール)は正常使用の麻薬である、という認識を持っていること。そして、健康被害、社会的問題については、酒(アルコール)とタバコでは、比較にならないほど酒(アルコール)が重大であることを肝に銘じて、医師という職業に従事していることである。
因みに、我が家では、私はタバコを吸わないが、愛酒家と言っていいだろう。しかし、一方、うちのカミさんは愛煙家であるが、下戸である。それでは、私が酒(アルコール)の問題を唱えてはおかしいではないか、とおっしゃる方もおられるだろう。しかし、それが人の営みというものではないだろうか。
私は本来、他人の趣味、嗜好、生活習慣には口出ししたくないのだが...、因果な職業を選んだものである。ただ、正常使用の麻薬には「止めなさい」と指導することは控え、別の手法で接するように心がけている。
追記:G君も今、タバコは止めている。が、私と同じで愛酒家である。
参考図書:「愛煙家通信No1」喫煙文化研究会(編)・出版-WAC