ゆとりのTPO

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(月)

10月

エッセイ

2010年10月5日午前4時前に目が覚めた。年を取ると中途覚醒(夜間に目覚める)が多くなり、そして、お手洗いである。ふっと枕元の携帯電話に目をやると、メール着信の合図が点滅していた。携帯電話にパソコンのメールも転送できる仕組みにしている。開いて見ると、アルコール・アディクション問題を専門に取り扱っている季刊誌「Be!」の編集者のT女史からであった。着信時間が午前2時過ぎである。遅くまでご苦労様と思いつつ、メールの内容を読んでみると、次号『Be!』101号で「心のゆとり」の特集を行なうことにした。そこで、ぜひとも私のインタビューを入れたいとのことであった。彼女とはこれまで何度か、電話とメールのやり取りで取材を受け、インタビュー記事、それに連載記事も『Be!』に掲載してきた。インタビュー自体は問題ない。しかし、テーマがいけない。"ゆとり!?ゆとり??ゆとり!!"である。これは困った。何となれば、私自身の今の生活は、「ゆとり」にはほど遠いものだからである。"ゆとり!?ゆとり??ゆとり!!"と頭の中を駆け巡ってもう眠れない。2010年10月5日は再入眠することなく起床時間午前4時前になってしまった。おかげで、その日の一日の診療は辛かった。
そんな中でも"ゆとり"の言葉が頭から離れない。その日の夜、疲れ切った頭でテレビのニュースを観ていると、政府が連休を北は北海道から南は九州までブロックで分割し、ずらして設定することの検討に入ったことにふれ、そのメリット・デメリットを紹介していた。私は職業柄、連休が嫌いである。連休、長期休暇を取るのはいいのだが、その前後が大変である。とくに外来の患者のやり繰りに苦慮する。そのニュースを眺め、そんなことを思いながら、突然、頭の中に「ゆとりのTPO」って文字が浮かんできた。そうだ、ゆとりの時間(T)、場所(P)、機会(O)についてまとめてみよう。それを軸に話をふくらませれば、後はT女史が上手くインタビュー記事にしてくれるはずである。ホッとして、その夜は前夜の寝不足も手伝って、よく眠れた。
まず「T」、時間ついては、お役人さんがお好きなようである。「ゆとり教育」といった提唱がなされ、実践もされた。しかし学力低下につながったと、元にもどっているようだ。連休の件もどうなんだろう。狭い日本で、分散化するといった段階で、すでに流通業界中心に諸々の課題が噴出しているようだが...。
では「P」、場についてだが、私はゆとりの場、すなわち遊びの場には、2つの文化が存在すると思っている。それは「廓文化」と「借景文化」である。「廓文化」で今一番の成功は、ディズニーランドだ。老いも若きも童心にもどって、安全快適に遊びに興じる場として提供されている。それでは「借景文化」だが、もちろん京都のお寺を訪れ、東山、比叡山、嵐山の眺めをお借りして時を過ごす、というのが代表的である。さらに昨今の温泉ブームで日本の人気ベスト3の大分にある湯布院温泉は、由布岳を借りて、旅館、その他の建造物に規制をかけてゆとりの場作りに成功している。ただ、この2つの場作りは、規制とか細かいマニュアルに沿って維持されており、加えて、その場を支える人手もかかっている。ということは、その場を利用するには、それなりにコストがかかることになる。出費がかかり過ぎると、余裕、ゆとりがなくなりかねないんだよね...。
そこで最後に、「O」、機会はどうだろう。これは、各人が心の中で作るもので、外から作られるものではない。例えば、一人でもいいのだが、仲間で一緒に仕事をしていても「ちょっと一息入れよう」と誰かが声をかけて、お茶を飲んで雑談するとか。そういった適度な「間」を取り入れることで、呼吸があったチームになる。うまくいくと、みんなで達成感を味わえる。これは、何もわざわざ長い時間を取る必要もないし、どこか他の場所にお金をかけて出かけなくてもいい。そんな‟ゆとり"を機会(O)が生みだしてくれると思うのだが...。如何なものだろうか。
そうそう、あのチリの落盤事故で地下約700メートルに閉じ込められた33名の作業員の69日間、そして奇跡の救出劇で考えていただきたい。とくに地上に生存が確認できるまでの17日間は、TとPの‟ゆとり"は皆無であっただろう。救出作業開始後は、Tに対する‟ゆとり"は期待といったもので多少生まれたかもしれない。しかし、Pは相変わらず快適な‟ゆとり"の空間とは言い難かったはずである。だが、この救出された33名が全く‟ゆとり"なしで69日間を過したとは思えない。そこには彼ら33名が生みだしたOがあったに違いない。その一つに救出されたら33名が一緒に共同で体験記を出版すると約束していたこと、それもOの"ゆとり"の材料になったに違いないと私は思う。だがマスコミ報道では、救出後、各人が世界中の出版社、マスコミと契約して、その約束は反故になっているとか?いいではないか、人間らしくてむしろほほえましくもある。もう彼らは、家族、祝福してくれる人たちと平常の中で"ゆとり"の時を過ごしている。非常の中で生みだした‟ゆとり"は必要ない。それでいいのだよ、‟ゆとり"ってのは「ケ」とか「日常」のつなぎ、「間」なんだから...。