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エッセイ

私の兄弟は6人兄弟であった。長男は1944年の終戦直前に結核性脳膜炎で1歳になった直後に亡くなっている。また、長女は終戦直後、幼くして食中毒で亡くなっている。彼女が生きていたら西脇家に養女として迎えられる予定だったらしい。そうなると、私は医師にはなってなかっただろう。全く違った人生を歩いていたに違いない。そんな私も幼い時、肺炎に2度罹っている。幸い、その頃には朝鮮特需、医療関係の一族といったことから、比較的容易に感染症の特効薬ペニシリンが手に入り一命を取り留め、今日まで生を与えられてきた。この時代、いやその前まで、子供を産み、育てるというのは、そんなものだったのだ。私の家が特別というわけではなかった。

時代は少しさかのぼるが、1972年、私が医師になり、地元大学病院の精神科教室の医局に入局当時の頃のことである。入局して、新人医師の最初の仕事は、予診取りである。つまり、新しく受診してきた患者の受診理由、患者の生活背景(生活歴)、そして家族関係(家族歴)を聞きだし、診察を行う上級医師(教授、助教授、講師)にその情報をカルテにまとめて提供することであった。とくに当時は家族歴が重視されていた。

ところが、その家族歴、それも親の兄弟、患者本人の兄弟の安否、順番を聞きだすのが結構大変であった。
「あなたのご兄弟を上から順番に教えて下さい」と、まず尋ねる。そこで、ご本人が、当時の私より10歳も年上だったら大変である。ましてやその親のご兄弟の安否を問うのは尋常ではなかった。
「え~と、兄弟は10人、いや9人でしたかね...? 一番上の兄はインパールで戦死して、いえいえ、その上に姉がいましたかね、その姉は生まれて直ぐに亡くなったんでした。それから、次の姉が...、いや次は兄だったですね。あん兄チャンも満州で亡くなったとです。今、生きとるとが、二番目の姉と三番目と男が私ば入れて4人で、一番下が妹です。」
「だったら10人ご兄弟ですね」と確認すると、
「いや待ってください。私と私の下の弟の間に妹がおったごたる」と。
昨晩飲みすぎた2日酔いの頭がガンガンしてくる。しかし、ここで終わりではない。これから、彼の生活歴を聞き、受診理由を尋ねて、上級医師の診察に陪席して、診察のやり取りを記録しなければならない。

2010年、家族歴を聞きだすのに苦労は要しない。
「兄弟は、兄と姉です。姉は長崎で結婚して子供が2人です。兄は東京で働いています、まだ結婚していません。両親は長崎に住んでいます。父の兄弟は3人で、一番上は昨年癌で亡くなりました。母は一人っ子で、母の祖母は元気にしています」と。いとも簡単にスラスラと語ってくれる。

私の子供は、4人である。よくいわれるのは「4人もお子さんがいらっしゃるの...」である。しかし、私の幼かった頃、いやその少し前までは「たった4人なの...」ではなかったかな?
まさしく、「小さく産んで大きく育てよう」から「少なく産んで大事に育てよう」である。
これは、幼児死亡率が著しく低下したこと、若者が結核等の感染症で亡くなることがなくなったこと、それと、国際間の諍いごとに巻き込まれず、これまた若者の戦死、戦病死がなくなった結果である。それら全て、医療の進歩のもう一つの真実である。

2009年11月23日、日本経済新聞のインタビュー「領空侵犯」で、リナックスカフェ社長平川克美氏は、「少子化は『進歩』の帰結」と題して、-人口減社会への転換急げ-としている。私も「少子化は『医療の進歩』のもう一つの真実」と思う者として、同感である。世界的な規模からすれば人口爆発が、今後、資源の枯渇と環境汚染を加速させ、水戦争なるものもささやかれている。もう子供手当だ、CO2を25%削減だなんて、子供だましは通用しない。もっと大局的な、むしろ人口が減少すること踏まえた社会制度、環境整備、事業計画の政策転換を打ち出す知識と知恵を結集してほしいものだ。