依存に代わる趣味をもつこと
08
(火)
05月
【 エッセイ 】
40年来精神科臨床で患者に関わり、30数年、依存症治療の現場に身を置いてきた。そんな中で、患者はよく次のような宣言をする、「先生、酒(パチンコ)に代わる趣味を持ちます」と。家族もまた、「他に何か趣味を持ってくれるといいのですが...」とも。私は長年、そんな彼らの提案に対して、「いや、依存症は病気なんだからね、趣味ではね...」と口ごもるのが常である。
ツトムちゃんは、1989年11月17日、警察官に連れてこられた。酔うと手がつけられない。その前日も、酔って商店街の通りで大声を出して騒ぎ、『酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律・第3条(保護)』で一晩警察署に勾留された上でのことだ。
そういったことで、着の身着の儘(まま)である。警察官が引き上げた後、「先生、入院するけん、荷物取りに帰ってきます」と懇願する。私にも素面(しらふ)の彼を引き留める権限はない。一旦お帰りいただいた。だが、街中には酒屋は沢山ある。ツトムちゃんはアルコール依存症だ。我が家に辿り着くわけがない。ご機嫌様になって、またまた日本で最も長い法律名である『酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律・第3条(保護)』により、2日続けて留置所へお世話になるはめになった。そして、やっと翌18日警察官が入院に必要なものを準備してくれ、当院への入院となった。ツトムちゃんにとっては、これはショックだった。これまでの入院は警察側と精神科病院側との連携がスムーズで2日間も留置されることなどなかった。こんな手間暇かけての入院は初めてことだった。
そこで、私には今でもよく分からないが、酒を断つことを真剣に考えたらしい。それは彼が45歳の時だった。それまでにヤクザの世界に身を置いたこともあり、出入りも経験している。一度私に「本当の出入りは、高倉健の任侠映画みたいに恰好よくありませんでしたね」と語ってくれたことがあった。
だが、酒で酔狂を繰り返す彼はヤクザの世界にも向いてない、と兄貴分から諭され、以後、建築、土木の仕事に就くが、やはり酒の上で問題を起こしては転職を繰り返した。そして、30代半ば頃には、今度は精神科病院への入退院を繰り返すようになっていた。
そんな彼が、当院に入院して3ヶ月間、さらには退院後の外来通院中も真面目だった。自助グループにもつながった。ただ、酒を断たねば、といった必死さからか、時に苛立ち変に理屈っぽくなり、ことあるごとに私へ難癖をつけてくる。それに対して、私が説明なり、解説を加えると、自らの非を認めて、しきりに頭を掻いてわびる。彼は私より4歳年上だが、そんな彼が憎めなかった。だから、何時の頃からかツトムちゃんと呼ぶようになった。
そんな彼が酒を断って一年たった頃から仕事にも力を入れるようになった。それは次第にエスカレートしていった。建築、土木の仕事だ。時には県外にも出向くようになった。そして、とうとう関西地方に年間を通して仕事に出かけるようになってしまった。その後、彼は週に一回、昼休み必ず私に電話をするようになった。彼にとっては、一週間の癒しの一時である。その間の自分の仕事ぶり、周りにどのように評価されているかなどと、自己の存在を自慢げに語ることが多かった。それは30分余りに及んだ。私にとっては貴重な昼休み時間を割いているのだが、彼は意に介していなかった。
そんな関係が長く続くわけがない。彼は1994年、再飲酒をした。その後の彼の入院は4ヶ月に至った。その間彼は、内省を深めたようだ。まず私の貴重な昼休みの時間を一週間に一度とはいえ、割いていたことを詫びた。そして、アルコール依存症からの回復は、自らの本業を犠牲にしても取り組まねばいけない人生をかけた事業であることにも気づいたようである。それから、彼は酒を断って、如何に自分がどんなに素晴らしい仕事人であるかは、語らなくなった。むしろ控え目になっていった。そして、当院に常時通院することもなく、夜間集会の参加もなくなった。彼は他県に住まうようになったからだ。
そんな彼が、年に一~二回、夜間集会に訪れてくる。そこで、私が彼を指名すると、過去の飲酒時代の犯した過ちよりも、1989年から1994年にかけての断酒継続(後半は私と電話で雑談する。ある意味、趣味の域。)をして仕事をできるようになった時期の自己の傲慢な生き方を語り号泣する。
彼はもうじき70歳、古希になる。あの時の再飲酒のおかげで、今、穏やかな老いを迎えている
依存症からの回復とは、仕事第一で、断酒継続は「趣味」の域では如何ともし難いもののようである。