旋冶朗の椅子

23

(火)

04月

エッセイ

1999年、いや98年だったかな、忘れてしまった。
とにかく20世紀末のとある夕暮れ時、私は東京赤坂の田町通りをウロウロしていた。行先はすでに決まっていた。飲食店が多く入っている一軒の雑居ビルだ。そのビルの壁にかかっている店名のなかの一つ、スナック「おくんち」に私はこれから訪れようとしていた。午後7時を過ぎた。もう開店しただろう、とエレベターに乗って、「おくんち」のある階へと昇って行った。その階に降りると、すぐに分かった。正面の店だ。扉を開けると人の気配はなかった。まだ早かったかな、と思いつつ、「こんばんは!もうお店やっていますか」と声をかけてみた。奥のカウンターから、「お~ぃ」と返事があり、男性の顔が現れた。その人物はカウンターのなかで椅子に掛けてスポーツ紙を読んでいたのだ。その人物は、しばらく私の姿を凝視していた、そして、「おぃ!ニーケンか」(ニーケンとは私の中学校、高学等校時代のニックネーム)と。それが、40年近く音信不通になっていた旋治朗との再会だった。

旋治朗とはこれまでこのブログで幾度か紹介してきたS君のことである。
その夜は、30数年の歳月を埋めるかの如く彼と飽きることなく語りあった。店の営業は後から出かけてきた彼の奥さん任せで、閉店後も奥さんも一緒に近くの高級焼肉屋に案内された。その後、私は上京のたびに彼の店に顔を出すようになっていた。そこで、このブログを書くことすすめてくれたG君とも再会した。

そんな旋治朗との出会いは、中学校時代である。私たちは団塊の世代の走りで、私の通う中学は確か、当時全国で2番目のマンモス中学校だった。もちろん同級生も数多くいた。だが、そんななかで、その頃のアルバムを開いてみると彼と一緒の写真が一番多い。ということは、仲がよかった、良く付き合っていたってことだ。でも何故、そんなに親しかったのか思い出せない。私は小学校までは病弱で学校をよく休んでいた。加えて、比較的裕福な家庭で、義母に溺愛されて育てられていた。"いじめ"の対象になってもおかしくない、ひ弱ないいとこのおぼっちゃまだ。一方で旋治朗は悪(わる)で、いわゆる番長であった。今思うに、きっと映画「少年時代」で、東京から富山へ疎開してきた主人公の進一と疎開先の副番長のフトシとの関係みたいなもんだったに違いない。

私と旋治朗は別々の高校に進学した。旋治朗は、彼が進んだ高校でサッカーのゴールキーパーとして一年生の時から期待、注目されていた。しかし、詳しくは知らないが何か問題をおこし放校となり、上京したことまでは伝え聞いていた。だが、その後の彼の安否ついては、私は何も分からないまま40年あまりの時が流れていった。

再会のきっかけは、2000年に新たな病棟新築にあたって、幾つかの建築会社と関わるなかで、ある会社の担当者から、彼が東京でスナックを経営している、といった情報をもらった。その時、私の頭を"あいつ生きていたんだ"といった思いがよぎった。中学校時代は悪、そして、高校を放校になり、上京。東京では、きっと何か事件に巻き込まれて死んでいる、と。だから、彼のことは、私の記憶から消え去っていた。

案の定、上京して勤めた寿司屋では、気に食わない客をビール瓶で殴り、すぐにクビになっている。その後、こともあろうかフランス料理に挑戦。フランス語の辞書を片手にお勉強されたりもしたらしい。
そんなこんなで一廉(かど)の料理人になったが、彼の気性から、その料理人人生も山あり谷ありだったらしい。そんな彼のいい時も悪い時も、一貫して友人であり続けたのがG君だった。そんなG君の制作したコマーシャルが全国で大ブレークしていた時期を同じくして、彼も六本木にエスニックレストランを開店した。六本木の「アマンド」のすぐそばだ。分りやすい。私もその頃は上京する機会が多かった。そして、私の子供とか姪子たちが毎年のように東京の大学に進学していた。私が上京すると夕食は、その店に全員集合だ。夕食が終わると、子供たちは帰して、六本木の夜の街に旋冶朗、G君と消えていくのが常だった。それは第二の青春を謳歌していた、といってよかった。楽しかった。

そんななか、彼はもう一軒店を出すことを計画していた。それは、長崎では知られた料理だが、全国区ではない、たとえば"トルコライス" 、"○○のカレー" と。今でいうところのB級グルメの店だ。だから、彼の発想は今のB級グルメブームの走り、といっていい。ただ、場所を選ぶのに苦労していた。最終的には浅草に店を開店したが、素人の私にも少し人の流れからはずれた場の選択であった。やはり、一年そこそこで店じまいをした。

ただ、そこの店の椅子が私はお気に入りだった。
そこで、旋冶朗にお願いしてそこの店の椅子全てを譲っていただくことにした。足の長い椅子は、いただいて直ぐに2000年に建てた建物の4階の患者、職員共有のレストランの、庭園と長崎の街が眺められるカウンターの椅子として使用している。そして、足の短いのは、廊下などのコーナーに置いて患者さんの一時の休息に利用してもらっていた。

2012年12月15日、彼の訃報が長崎の友人と、次いで彼の奥さんから電話で知らされた。土曜日の午後の時間である。それも年末だ。今夜、上京しなければ年を越してしまう。私はその夜の最終便で彼のもとに向かった。

旋治朗の死の予兆は10年前にすでにあった。ちょうど私が、頻回に上京していた時期である。彼は腎臓がんが判明し、片方の腎臓を切除した。手術は無事成功して、酒と煙草を止めただけの旋冶朗がすぐに復活してきた。
その後、私の東京での仕事が少なくなるにつれて彼と会う機会も少なくなっていった。というより、上京の機会が少なくなったものの、彼に連絡はして、彼の店には顔を出してはいたが、彼が顔を出してくることはほとんどなかった。

そして、2012年10月、彼から電話があった。何時ものように「おぃ!ニーケン」と。そして、全ての店を閉じてしてしばらくゆっくりすること、さらにG君が体調を崩していることを一方的に語ると電話は切れた。声にもハリがあり、元気そうだった。その時は、私もむしろG君の健康が気がかりだった。

彼が亡くなった翌日、弔問に伺った時、奥さんに彼が亡くなる前の様子を尋ねると、私に最後の電話をかけてきた頃には、すでに癌の転移が進み、日常生活のほぼ全てを奥さんがサポートされていたとのことであった。それを聞いて、自分のことについては弱音を吐かないで、友人の体の不調を伝えてきたあの最後の電話は、何か彼らしい別れ方だったのかなぁ、と。

確か、彼だけだった。中学校時代からずっーと何時も「おぃ!ニーケン」って、私を呼び続けたのは...。そんな時の眼差しの奥では、大人になってからもだが、中学校の頃と同じく "何かあったら俺がついてるからな"と...。
そうだよね。中学校の時に私がいじめに遭わなかったのも、あの些かダーティーな六本木の夜の街を楽しめたのも旋冶朗がいたからなんだ。

2013年4月1日、西脇病院は新しい病棟をオープンした。
そこのデイルームに少し風変わりで、使い勝手が面白くなりそうなテーブルを購入した。椅子は決めていた。それは、これまで幾つか廊下などのコーナーで休息用に置いていた足の短い方の旋治朗の椅子がそのテーブルを囲むのに高さも数も丁度よかった。これで、旋治朗から譲り受けた椅子の落ち着き先、役割が決まった。

先に紹介した様に、足の長い椅子はずい分以前から、旋治朗と中学校時代過ごした長崎の街を眺望できる当院レストランのカウンターの椅子に、そして、今年の4月からは、新装となった病棟ホールの患者さんが集う場として、あるいは様々なグループ療法を行う道具として活躍を期待しているテーブルの椅子として足が短い椅子を使うことにした。

そんな椅子に掛けてみると、"俺が付いてるからな!"って、旋治朗の声が聴こえてくる。心強い...。

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