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エッセイ

1964年東京オリンピックを成功のうちに終えた日本は、その後、本当に元気だった。
そんな元気な風景の中、大阪医科大学でよく学び(私は除外)、よく遊ぶ、そして、学生運動といった「麻疹」にも罹ったりしたのが、私たち47回期生である。確か5回生の時には、直ぐそばの千里の丘で国際万国博覧会も開催された。未来に夢が持てた時期であった。
1972年(昭和47年)卒業。
私は卒業式を終え、一旦、実家のある長崎に帰省後、国家試験受験のため、あまり日をおかずに夜行列車で上阪した。
翌朝、大阪駅に到着。そこで駅の待合室のテレビにくぎ付けになってしまった。「浅間山荘事件」の生中継が、その日一日テレビで流され、高槻のアパートにたどり着いたのは、夜遅くなってからだったのを記憶している。
今になって思うと、何か時代のターニングポイントの時に医師としてのスタートきったようである。
それからは、豊かさを求め続ける日本の各地域で、私たち47回期生は、医療を、そして医学を生業として歩んできた。

2013年10月13日その47回期生22名が長崎の雲仙温泉に集った。お世話役は雲仙岳の麓で眼科医院を開業しているN君と奥様である。

時の流れは、皆を変えていた。老いたとは言うまい。ただ、今も「直球」で勝負しているのは、私と後二人だったかな?ほとんどが、世代交代などでボチボチと言いながらも、これまで培ってきた業(わざ)で「変化球」勝負と、いやいや中々頼もしい面々で意気健康だ。そんな中には、リタイヤしたと言いながらも、超スローボールで飄々と、まさに行雲流水のごとくマウンドに登っているのもいたね。これまたうらやましい限りである。

当日は天気にも恵まれ、宿泊したホテル東園の裏庭からの夕焼けはことの他美しかった。同じように黄昏時の私たち47回期生の集いもやはり素敵な心地いい同窓会であった。黄昏時もまんざらではないね。

そうだ、体調を崩して参加できなかったO君から手紙をいただいているとN君が、相変わらずのしゃがれた声で、いや渋い声で読み上げ紹介してくれた。
となると、O君も出席だ。これで、47回期生23名がお山雲仙に集い、楽しい一夜を過ごしたことになる。

さあ、これからは黄昏時の延長戦だ。
2020年は、そうだ「TOKYO」に集まろう。
私たちにとっては2度目の東京オリンピックだ。
O君は「サッカー」、私は「7人制ラグビー」N君と奥さんは「テニス」(テニスは五輪の正式種目だったかな?まぁ~どうでもいい)、他の諸君は、各々勝手に楽しんでくれ...!
さてさて、この黄昏時の延長戦は何時まで続くことやら...!